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リサーチ部

第29回 日本中の村を周ったライターからみた被災地

 今週から4週に渡り、ライターの真鍋じゅんこさんのお話をお送りします。
 2013年3月31日、JR日暮里駅を少し出た橋のあたりで収録を行いました。
 真鍋さんと丸岡の対談形式でお送りします。

丸岡:
真鍋さんはライターとして、どのような仕事をなさっているのですか?
真鍋:
私の夫はカメラマンです。2人で人の生活というものをずっと記録して歩いています。日本中の村や都市部の人の生活などです。
丸岡:
ステキですねー!ご夫婦で。
真鍋:
面白いですよ。それを雑誌や本でご紹介させていただいています。
丸岡:
具体的にはどのような雑誌や本で?
真鍋:
いまよく書いているのは、『散歩の達人』『旅の手帖』(ともに交通新聞社)や『サライ』 (小学館)という雑誌です。雑誌の内容をまとめて、本を書きます。日本の過疎の村を巡り歩いた『ニッポンの村へゆこう』(1997 筑摩書房)、東京の普通の家をずっと記録した『中古民家主義』(2008 交通新聞社)。東京湾の漁師さんたちのお話をずっと伺っているので『うまい江戸前漁師町』(2002 交通新聞社)などをこれまで出しました。
丸岡:
日本の過疎の村を周ることが、ある種のライフワークになっているのですか?
真鍋:
過疎の村だけではなくて、漁村、農村などにも行きます。日本中を回って歩いていただけに、東日本大震災のことが非常に気になっておりました。
丸岡:
それで、東日本大震災が起きた沿岸地帯を旦那様と周っておられたのですか?
真鍋:
そうですね。岩手県青森県から千葉県までの漁師町は、あちこちで漁師さんたちの取材をして歩いていました。連絡が取れなかったり、やっと連絡がとれても「大変だったんだよ」というお話を伺ったりしていました。
 心配でしたが、ただ、私たちが行って何ができるということでもありません。「やっぱり行っておかなければね」ということで、2012年の夏に、とにかく行けるだけ行こうと、沿岸地帯を周りました。夫ともう1人の友だちと、茨城県あたりから、車で上っていったんです。最終的には青森県八戸市まで行きました。ゆっくり行ったんですけど、全部で4泊5日かかりました。
 4泊5日分の距離が全部被災地ということ事実に身を持って驚きました。
丸岡:
それだけ広範囲に被害があったってことですね。
真鍋:
そういうことなんですよね。茨城県北茨城市あたりから始まったんですが、たまたま入った食堂で「天井の高さまで津波来ていたんですよ」というお話を伺いました。北に進むにつれ、だんだんその話が大変なことになっていきます。福島県に入ると、沿岸が原発事故で進入禁止なので、内側にある河内村、葛尾村、飯舘村には入れませんでした。
 福島市に出て、松川浦の漁港から、宮城の沿岸を通って、岩手県宮古市まで行きました。1回そこで一区切り付けて、今度は青森県八戸市から岩手県宮古市まで戻りました。それで3泊4日+1泊2日=4泊5日ということですね。場所によって被災の特徴が違うことに驚かされます。
丸岡:
具体的にはどのように違ったのですか?
真鍋:
たとえば、福島県松川浦は街が本当に変わり果てているのにびっくりしました。主人も親戚がいて、昔から知っている場所でした。漁港に行ってみると、地元の方たちが掃除をしていらっしゃるんです。「今まだ放射能の騒ぎで、漁に出られないので、毎日できることはこんなことなんだよ」って言って。そういう姿を見ていると、胸が締め付けられる思いですよね。
 だんだん上って行って、宮城県名取市に行きました。空港に津波が上ってきたところに行きました。本当に真っ平らで、びっくりしましたね。松島の辺りを通って、宮城県石巻市に行きました。石巻に何人か友だちがいるので。旧市街地がボロボロになっていて、本当に驚かされました。友だちもだいぶ被災して、家が駄目になってしまって。
丸岡:
草っ原ばっかりですものね。私もちょうどその時期に石巻市へ行ったんですよ。
真鍋:
そうなんですか。そこで一生懸命に頑張ろうとしてる人たちがいらして、ホッとしました。復興商店街やったりね。それから上がもっと大変ですよね。宮城県牡鹿半島は全然変わってしまって。
丸岡:
牡鹿半島は一部の高台以外全部草っ原ですよね。
真鍋:
そうですよね。震災が起こる前に行ったときは、家のガレキもすごかったんです。1番印象に残ったのは、布団が何mにも山になっている人の生活が見えてすごく辛かったです。街ごとに違う大変さがあるのも衝撃です。
丸岡:
真鍋さんありがとうございました。東日本大震災においては、東北だけではなく、実は東京にも津波がきたのです。来週はそのお話をお届けします。

担当

丸岡 美貴(法政大学)

丸岡 美貴(法政大学)